この小さな町の中心には高圧送電線用の大きな鉄塔が1本建っていて、その頂上には150歳を超えたダイオウガラスの巣が作られている。ダイオウガラスには一度気に入ったものを死ぬまで集める習性があり、この町のダイオウガラスは10歳の頃からずっとちんちんのような形の物を集め続けている。鉄塔の頂上に集められたたくさんのちんちんのようなものは1つの大きなちんちんのようなものを形成していて、遠くから見ても近くから見てもちんちんのような、それでいて少しちんちんでないような、たくさんのちんちんのようなものがそれぞれ持つちんちんとの違いが、大きなちんちんのようなものでは打ち消しあったり強めあったり、基本的に強めあって、大きなちんちんのようなものは、むしろ大きな笹かまぼこのようなものとか大きなサーフボードのようなものと呼んだ方が正しいが、かつて大きなちんちんのようなものを形成する小さなちんちんのようなものの数が少なかったころ、つまり大きなちんちんのようなものが本当にちんちんのようだった頃からの慣例で、未だに大きなちんちんのようなものと呼ばれている。
ダイオウガラスが40歳ぐらいの頃、つまり鉄塔の頂上の大きなちんちんのようなものがまだちんちんのような形をしているぐらいには小さく、しかし遠くからでもちんちんのようだとわかるぐらいには大きかった頃、町のどこからでもちんちんのようなものが見えるのは品がないだとか教育のために良くないだとか、そういう会議が公民館で行われて、ちんちんに慣れている大人の男はいいけれど、まだちんちんに慣れていない女性や子供たちはできるだけ大きなちんちんのようなものを見ないように、サンバイザーを着けて暮らすという決まりができた。外を歩くたびに大きなちんちんのようなものが見えてしまうのは不快だったようで、この決まりはすぐに町民に受け入れられ、100年以上経った今でもサンバイザーを着けるしきたりが残っている。
さて、この決まりができた100年前は、みんな大きなちんちんのようなものを見たことがあり、それを隠すためにサンバイザーを着けていた。しかし、今は違う。決まりができた頃の人々はもういない。今この町にいるのは、生まれた時から親にサンバイザーを着けられていたサンバイザー2世、その子供の3世、さらに4世や5世と、大きなちんちんのようなものを目にする前にサンバイザーをつけた者ばかりである。彼らは大きなちんちんのようなものが町の中心にあることを知らないわけではない。しかし彼らはそれを見ない。サンバイザーは大きなちんちんのようなものを彼らに見せず、彼らもサンバイザーが隠すものをあえて見ようとしない。しかしながら、どんな集団にも決まりを守らない人はいるものだ。何年かに1人、特に子供たちの中に、サンバイザーを外して鉄塔の頂上を見る者がいる。彼らは大きなちんちんのようなものの姿を凝視して、その大きさと形に恐怖するかしないか、とにかく大きなちんちんのようなものが目に焼き付いて、それを忘れない。大きなちんちんのようなものの形が頭から離れず、かといって人に話すわけにもいかず、そのことばかりを考える日々がしばらく続く。
ここで思い出してほしいのは、大きなちんちんのようなものはちんちんの形をしていないということだ。サーフボードか笹かまぼこか、途中が膨らんだ板のような形をしているのだが、こっそり大きなちんちんのようなものを見た子供たちは、それが大きなちんちんのようなものと呼ばれている限り、ちんちんの形をしていると信じ込んでいる。大きなちんちんのようなものを見た女の子は、ちんちんはサーフボードのような笹かまぼこのような、そういった形だと思い込んでしまうのだ。男の子だってそうだ、男の子が今までに見たことのあるちんちんの本数なんてたかが知れているし、その中でもしっかり見たことがあるちんちんの本数と言ったら、自分のちんちんと父親のちんちんを合わせて2本がいいところだろう。小さなちんちんが2本集まったところで、あの大きなちんちんのようなもの1本が目に飛び込んできた時の印象に勝てるはずもない。自分のちんちんを持っている男の子でも、ちんちんは本来大きなちんちんのようなもののような形をしていて、自分のちんちんは少し形がおかしい、そう思ってしまう。
この町の暮らしは平凡だ。町民全員が着けているサンバイザーと、町の中心にそびえたつ大きなちんちんのようなものを除いては、よくある住宅地以外の何物でもない。今日も人々は学校に行き、職場に向かい、買い物をして、また家に戻ってくる。この親子だってそうだ。サンバイザーを着けている以外なんてことない、子供2人と母親だ。しかしもしかすると、そんな疑いをかけることは失礼だけれども、この中の誰かは、もしかすると全員が、大きなちんちんのようなものをその目で見たことがあるかもしれない、その可能性は否定できない。もし大きなちんちんのようなものを見たことがあるとすると、ちんちんの形を間違って覚えていることになる。これからの人生で何本ちんちんを見たとしても、大きなちんちんのようなものによって植え付けられたちんちんの形のイメージが覆されることはない。大きなちんちんのようなものを見てしまった人たちは、ちんちんの形を間違って覚えながら、何食わぬ顔をサンバイザーの下に隠して生活する。
ダイオウガラスの平均寿命は200年と言われていて、300年近く生きることも珍しくはない。ダイオウガラスが小さなちんちんのようなものを集め続ける限り、大きなちんちんのようなものはさらに大きくなり、ちんちんのようでなくなっていくだろう。大きなちんちんのようなものを見てしまった人は少数派ながら、何十人かこの町に暮らしている。しかし彼らは仲間ではない。時代とともに変わり続ける大きなちんちんのようなものの形が、彼らに共通のイメージを持たせない。サンバイザーを外してしまった者たちは、それぞれの目にその時の大きなちんちんのようなものを焼き付け、それぞれの間違ったちんちんの形を信じ、ちんちんの形のイメージの違いという大きな孤独が根底に刻まれたと気付かないまま、一見して周りと同じような人生を生きていくのだ。