この世界に入り込む。
ここにはただ「リモコンを握る腕」と「それを見つめる猫」がいる。ちょっと視線を下げてみるとさっきまで猫に遊ばれていたカナブンがもがきながらも窓の外へと逃げていく。猫がリモコンに興味を持ったためにこの命は助かった。また、おとといこの猫の飼い主、もといリモコンを握る腕の持ち主は河原に珍しい魚を捕まえに行ったが、その途中で小さなカニを4、5匹踏んづけた。ばらばらになったカニは周りの生物の生きる糧になったであろうが、カニ自体の生命は絶たれてしまった。
一週間前のお見舞いもそうだ。彼の母親は今体調不良で入院しているのだが、じめじめした6月の病室には多くのコバエが浮いていた。彼は病院で過ごす間・見つけ次第その緩く動く蚊を叩き潰した。32匹程。
半年前、彼が通勤時に使っていた電車で大規模な脱線事故が起きた。幸い彼は軽傷で済んだのだが、圧迫され身動きも取れないラッシュ時の車両には、皮脂に混じって焦げた臭いと、血の匂いが漂っていた。253名もの人が亡くなった。
十年前、彼が幼い頃訪れたハワイで、彼の泊まったホテルの窓から見える場所にあった大型ショッピングセンターに、一台の飛行機が墜落した。飛行機内・施設内共に死者は多く、血は多く飛び散り、遠くで見ていた少年の目、そして脳にもこびりついた、その悲惨さはけっして忘れられないものだった。死者2209名。
死、それは常にわたしの周りにあるものだ。この世界に確かに存在するものだ。死は存在はそのまま生の存在へと繋がっていて、わたしの存在自体をも確たるものにしてくれる。死こそが、わたしに安心を与えてくれる。生のみあればよい、という人は死の存在を忘れている八方塞がりの人間だ。死こそが全てを司る、生だけでは証明しきれない問題もすべて死の闇の中では可能となる、死は確かで、そのあとは不確かだが、死が確たるものであることによって不確定な要素も現実なものとなるだろう。わたしは死と隣り合わせであることを誇りに思う、生と死を実感して生きることを、だ。
さて、わたしが元いた世界は今息をしているだろうか。きっと向こうの猫の背骨は針金で命はない、向こうの世界にあるリモコンも通電のために作られたものであって、あんな世界に意味はない用もない。この世界はあちらの世界で作られた絵ではなく、もちろん鏡でもない。この世界こそが生きる場所、透明なガラスに刻まれた確かな道なのである。素晴らしい世界、わたしはこの世界から出る必要はあるのだろうか、わたしの思考はずっとここに閉じ込められたままでよいのではないか。きっと虚構に縋るより遥かに正しく健全である。そうとなれば先は一つ、さようなら過去の自分、さようなら虚構のわたし、わたしはこれから息づく世界で生きてゆくのだ。